画像提供元
作家/制作者
作品名/資料名
クリア
閉じる

作品詳細

クレジット表記
Photo : Kobe City Museum / DNPartcom
ご利用上の注意
ご利用内容により、画像提供元(美術館・博物館等)から事前に許可を得ねばならない場合があります。
コレクションNo.
KCM000029
作品No.
12章-特001
画像No.
KCM000029
 
 
作品名
朝鮮通信使来朝図
 
 
作家名
羽川藤永
作家名欧文
Hanekawa Touei
 
 
分類
江戸の絵画
年代
江戸時代、延享5年(1748)ごろ
材質・形状
紙本著色
寸法
69.7×91.2
 
 
所蔵先
神戸市立博物館
画像データ
35.3MB
解説
容儀を正して整然と行進する朝鮮通信使を透視図法を採りいれて描いた風景画。このような様式は1740年代の江戸に誕生し、画中の事物が立体的に見えることから浮絵(うきえ)と呼ばれた。本図の古い収納箱の箱書きも「浮絵」と見える。本図は将軍の交替の際などに来日した朝鮮通信使のうち、寛延元年(1748)第10回の通信使の後進をもとにして描いていると推定される。轎(かご)に乗った要人とその一行が将軍への挨拶を終えて、使館の浅草本願寺へ戻るため常磐橋(ときわばし)を渡り、本町(ほんちょう)二丁目を過ぎていく情景を描いている。異国趣味あふれる通信使の容儀や、幕をめぐらせ屏風を立てた桟敷(さじき)で行列を見物する群集の描写に筆者は、重点を置いている。本図の収納箱の貼紙からこの図が、徳川吉宗の第二子、田安宗武の子で、宝暦3年(1753)に9歳で夭折した小次郎(孝慈院)の愛玩の作品であったことがわかる。小次郎の死後、宝暦4年に理性院尼から東叡山寛永寺の子院で、小次郎が葬られた凌雲院の僧正光俊に贈られ、さらに光俊から宝暦11年(1761)に延暦寺までもたらされたらしい。入念な細部描写、金箔を多用した仕上げなどはとくに上質である。本図が実際の通信使の細部と異なるため、山王祭りの唐人行列と見なす意見があるが、祭りの情景だけとも言いきれず、通信使の行列が主で、それに祭りの記憶が部分的に混在して作画されていると考えられる。また、そうでなければ朝鮮通信使が、富士山を背景に行進する後代の浮絵流行が説明できない。
注釈
池長コレクション名品100選 【名品2008】、1幅